フィリピンガイドの第一人者

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また、フィリピン各地を旅行し、さらに歴史を学びたい方々はフィリピンガイドの第一人者で特に史実に詳しい方で鈴木道夫様がおられます。
電話:0939-557-6714 
※ご案内は当社日本コンサルタンシ-サ-ビス(株)賜っております。
以下に鈴木道夫さんの戦争にまつわる貴重な記述を紹介します。

『太平洋戦争とフィリピンと日本と』

 私は約47年前即ち1970年3月に日本青年協力隊(JICA)としてラジオ送信機をつくりラジオ放送局を創設する目的でフィリピンに派遣された。バギオより北へバスで8時間の所にあるアブラ州の首都バンゲード市は戦後日本人で初めてと言う。
 山にシールドされたアブラ州はバギオからの電波も入らなかった。そこで私は州の山々の山頂にSSB無線機を設置してバンゲード市役所との連絡ができるようにした。しかし最初山に一人で入っていったら軍隊もどきの人間にアルマナイト(機関銃)を突きつけられ“お前は日本人だろう、私の家族は日本軍人に殺された、丁度よいここで恨みを晴らしてやるからな!”少し怖くなった。

 もう戦後25年も経って平和条約も結ばれ1965年に神奈川県の県知事である内山岩太郎さんが6万袋のセメントをもってマニラ大聖堂を再建させて以来反日感情はなくなっているとマラカニアン大統領政府より聞いていたのだが、こんな山奥の田舎ではまだ情報も入っていないのだろう。
 私は覚悟をきめて“私は平和のために日本政府から派遣されてこのアブラ州の皆が聞けるラジオ放送局を作りに来たのです。私のボスはカルメロ・バルベロさん(後にマルコス大統領の右腕である参謀長)で私が今ここにいることは彼も知っていますし、もし私を殺したらあなたの家族は大変なことになりますよ。”と脅したらさすがバルベロの名前は特に軍人は恐れていたのか直ぐに謝って来たので私は仕事を終えた後も下まで護衛してもらった。なにせこの国の言葉は87の言語からなり、ましてやここイロカノ語などまったく知らない。タガログ語であるフィリピン語はのちにマルコス大統領が1972年9月に戒厳令を引き10月から母国語として全ての学校で必須科目として採り入れた。この国はアメリカがスペインと戦争(実際は2000万ドルでスペインはアメリカに交渉して売った。)した後44年間アメリカの支配の下、世界第三の英語圏になり英語は通じたので彼らを説き伏せて命拾いをしたのであった。

 その後すぐにこのことをバルベロさんに伝え数ヵ月後に私の作った4KWの中波(890KHZ)DZPA放送局からバルベロさんが私のことを紹介してくれた。どの鉱石ラジオもDZPAしか入らないのですぐに私のことが州全体にたちまち広がった。

 しかし危機は2度目も起きた。私は1ヶ月住んだバルベロさんの家を離れバンゲード市内の一般の人と同じニッパやしの小さな家を借りて住んでいたある日夕食から帰宅したらガラス窓が壊れ私のベッドの上には大きな石が投げつけてあった。私が夕食後ビールを飲んで9時以降に帰ってこなかったら死を免れなかったかもしれなかった。やはり反日感情は根強くあった。その後本当に怖くなりブストス神父(神学校の学長)のところに行き訳を話したら快く彼の2つ目隣りの教室のようなところにベッドが1つあるだけの広い部屋を貸してくれた。そのかわり私はその大学(DWCB)で教鞭をとらされた。そして私は放送局運営のかたわら学生に次のようなことを話し伝えた。

  1. 第二次世界大戦は日清戦争から始まっているが日本はアジアの植民地になっている国々を西洋の白人から追い払って独立させる大東亜政権をひきアジアはアジア人で協力し欧米と対等にもってゆこうという考えがあったこと。
  2. 後に起きたフィリピンの大インフレーションはアメリカが日本帝国軍の発行したペソ紙幣をたくさん写真印刷して造幣した為で、1箱のタバコは100ペソ札を何束も重ねなれば買えなくなって現地人が怒ったこと。 
  3. もしマッカーサーがフィリピンに戻ってこなかったら比国民の100万人以上は亡くならなかったし彼は比国民を日本軍から解放するためでなく父アルトロマッカーサー(マニラの知事をしており、ほとんどのフィリピンの大会社の株を持っていた)の資金を取るために戻ってきたこと。 
  4. そのためにルーズベルト米大統領との約束で彼は戦後大統領に出馬しなかったこと。 
  5. バターンの死の行進は8万人の捕虜を殺すためでなく未だ活動的なコレヒドール島から48門の敵の大砲の弾が飛んでくるのを防ぐために捕虜を北上させるためで28000人がそれでも亡くなったのは食料もなく当時マラリヤが流行っていたからであること。
  6. 韓国や比国で問題になっている慰安婦の件は日本の将校クラスの人間が当事国の担当者に依頼し、たった5分でその国の給料の5倍以上の収入になるので参加したい女性を募りそれに参加したのであって強制でやったわけではない。そのことは今現在どこの国にもあることで希望者がその道に入って行く事となんら変わりがないので今なにも知らないある政治家は詫びていること。こういったことなどを学生に伝えてきたが皆んな目を輝かせて理解していただいた。

 その後協力隊の任務を終えて日本に帰ったら“そんな遅れた国で2年以上も過ぎれば電子工学の日本の世界では使い物にならんのではないか。”と言われ私は“これからは我々のような他国で経験した人間が必要なのだ。”と反論してまたフィリピンに戻ってきた。最初は仕事と言う仕事がないので厚生省の柏木さんと本タオさん達と一緒にルバング島での小野田少尉探しに参加し私はスパイのスパイとなって(小野田さんはスパイの中の学校出身)第一陣にテントを張り彼の戦友であった高橋さん等とそこに寝泊りしながら探した。ルバング島はミンドロ島の一部でミンドロ島はレイテ戦終了後の米海軍の大切なところでそこからクルーガ中将は昭和20年1月6日から4個師団(20万人)をリンガエン湾に浮かべ3日間艦砲射撃を日本軍の守備にあった旭,盟,虎、撃、各兵団に撃ち続け1月9日についに上陸し米軍のルソン本島への攻撃が始まった。スパイの小野田少尉は上司の谷口少佐から“お前の任務は戦争が終わってから始まるのだ”と言われていたので小野田は戦争が終わっても出られなかった。スパイの訓練と言うのはたとえジャングルの暗闇の中を逃げ廻っている時は常に片方の眼を閉じている。そうすればいざ敵から懐中電灯を照らされても開けてあった方の眼は見えないが(映画館の中に急に入って見えなくなる現象)閉じてあった方の眼を開ければ難なく暗闇でも逃げられる。だからなかなかつかまらない。小野田さんは我々が彼の母を籠に乗せてメガフォンで彼を探していることや我々のこと、勿論戦争はとっくに終わっていたことも知っていた。それではなぜ島から出られなかったのか?それは戦後一緒に逃げていた小塚さんが2人で食料を盗みに民家に何回か入ったところ、ついに見つかり小塚さんが鉄砲で足を打たれたあとも顔かたちが分からないくらいボロ(腰ばん刀)で打たれているのを見ているので小野田さんは怖くて出られなかったと思う。(それほど恨まれていたと言うことは彼らも民家の人々を殺していたと思う)

 フィリピンに於ける戦いは前編と後編に分ける事ができる。前編は1941年12月8日のクラーク基地への空爆から始まり12月22日第14軍の本間中将がリンガエン湾から入りバターンをやっと4ヶ月かけて1942年4月9に落とし5月6日にコレヒドール島を落としてウエンライト将軍(マッカーサーの代わりの最高司令官でマッカーサーはすでに3月コレヒドール島からオーストラリアに逃げていた。正式にウエンライトは無条件降伏書に署名して5月7日からは約2年半フィリピンは日本の統治国となった。そしてアメリカのマッカーサーは1944年10月20日4個師団(20万)の大群を連れてレイテ島東海岸に入ってきた。その前に日本軍大本営は知っていたがあわてて第14方面軍の山下将軍と共にルソン島に3つの拠点(尚武,建武,振武)で60万人を配備し日本本土構築のために時間を稼ぐことが山下軍司令官に与えられた任務であった。戻ってきたマッカーサーはマレーの虎と言われた山下と同じく戦争の天才でルソン島の強固な部隊をかく乱させるために(かく乱作戦)平地で高い山がないレイテ島を選んだのだ。山下はそれを見抜いていたが大本営はまんまとその作戦に引っかかりレイテに行った強い部隊(第16、第1、第26、第12、第8の一部の各師団、63旅団等)は生存率2%と無残にも玉砕されてしまった。マッカーサーは“このレイテの戦いで太平洋戦争の勝負はついた。”と言っている。前述の通り米軍は1945年1月9日からリンガエン湾に入ってからは火力、物量の差でどこの戦いでも敗戦に強いられ特に日本軍は火薬、食糧不足で山中に逃げ込み1945年の4月以降には転進命令も出されなくなれば勝手に転進することができなく自爆しかない。日本軍将兵の90%以上は餓死病死で50万人が亡くなっていった。

 自分の利益のためにマッカーサーはフィリピンに帰ってきたことでフィリピン人100万人、日本人52万人がこのフィリピンで亡くなった。そして私はいろいろな遺族団(生存者軍人も含め)の方々と遺骨収集で山々へ1週間10日間かけて住んだがそのときの一部には、生き残りの年配の方が夜山中で一緒に夕食後ワンワンと泣きだしたのであった。“大変なことをしてしまった。私は弱っている戦友を殺しそれを食べて生きてきたがそのときに持って帰った彼のボールペンを形見として日本のその方の奥さんに渡し“彼は米兵に撃たれこのボールペンを形見として私の妻に渡してくれと言われた”と嘘をつきその方の奥さんに渡した。私は一生どんな償いをしても許されない、と言っていた。私は戦争の悲惨さを目の当たりにした。そしてワンワン子供のように泣きじゃくるその方に“これはあなたが悪いのではなく戦争が全て悪いのです。”と言ってみたがこの言葉が正しいか否かは私も曖昧であった。私たちは今平和の中に生きているので平和のありがたさがわからない。戦争とは人間を犬以下の畜生にしてしまう。 

 このような遺骨収集は厚生省の中で進められたが現地の人たちは骨を日本人に持って行けばお金になると言うことで比国人の骨や馬の骨まで持ってきた。しかし我々は認識票(金物でできている)を元にそのあった場所だけを現地人に聞き我々日本人が自分らで掘ってその信憑性を求めた。その時場所によって5銭玉や10銭玉があった。誰が考えたのか「死戦を超えた5銭、苦戦を超えた10銭ということで明治のお母さんは毎日沿道に立ち千人針を縫ってもらった。(1人1針だが寅年の人からはその方の年の分だけ縫って頂けるので貴重がられた。)そしてそれを息子の腹に巻くとその息子は戦場に行っても必ず生きて帰ってくると言われた。苦労して育てやっと大きくなったと思ったら戦争に出さなければならないお母さんの心情は計り知れない。口では戦場に行く息子に“捕虜になるなら自決せよ”と言った明治の母は心ではどんなことがあっても命だけは帰ってきてほしいと願った証(あかし)であった。しかし皮肉にも千人針をくくって行った息子たちは1人も帰ってこなかった。

 第2次世界大戦では連合国にイタリー、ドイツ、日本と破れ、ドイツと朝鮮は東西,南北と2分割されたが日本も5分割されるところであった。そしてアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国がそれぞれ分割して統治することであったがフィリピンのキリノ大統領は大戦中に彼の妻と子供が日本軍によって殺された。しかし彼はいくら日本人を憎んでもその憎しみは消えなかったが彼の憎しみを変えるのは“愛”であることをアジアの人々に伝え、そして日本軍を許してくれた。彼は国際会議の場でこのことを伝え“日本を早く独立させ我々アジアの指導者となってこれからのアジア諸国を建て直してほしい。”とインド、スリランカ、マレーシア、インドネシア、ベトナム等々列強国の植民地となっている国々の前で演説したら欧米の列強国は何も言えなくなった。当時の昭和天皇はキリノ大統領には非常に感謝していた。(日比谷公園のキリノ大統領の銅像。)彼の力もあって日本の将校クラスの絞首刑囚100名近い人らも17名で終わった。それに追い討ちをかけるように「モンテンルパの夜はふけて」の歌ができ(作詞は軍人の代田銀太郎、作曲は17連隊参謀の伊藤正康)もっとよく直してもらおうと日本の音楽家に送ったら素晴らしい歌で直すところはありませんと返事がありその歌わせた娘の渡辺浜子が昭和27年クリスマスの晩に皆の大反対を押し切ってその刑務所の中で歌ったのである。そして翌年12月30日には全員釈放になり17人で止まっていた絞首刑は終わったが作曲した伊藤さんは18番目であった。

 人類の歴史は戦争の歴史でもあった。人間はいろいろな命の危機に立たされ悲しみ反省しそして平和を取り戻そうとするが時間がそれを風化しそしてまた争いが始まる。恒久な平和をつくるには人間全ての人が聖人にならなければ出来ないのかも知れない。しかし今回の様な大きな戦いで何百万人の人が亡くなってきたが、その人たちのかけた命は何のためだったのか? 
私たちは少しでも長く平和の尊さを後世に伝えてゆく義務があるような気がする。

鈴木 道夫